Labo-A作品02 『零戦 —レイセン—』用語集 Topページ
ご注意
 この用語集はあくまでも作品を楽しんでいただくためのものです。一般論や俗説も参考に制作していますので『歴史的事実』などを調べる目的での利用はお止めください(2003年〜2006年作成 2022年一部修正)。
 検索等で直接アクセスされた方は先にTopページをご一読ください。
十二試艦戦(十二試艦上戦闘機)
 1939年(昭和14年)3月に完成した零戦の試作機。「艦上戦闘機」とは航空母艦に積載される戦闘機のことである。
 零戦(零式艦上戦闘機)
 1940年(昭和15年)7月に正式採用。この年が皇紀(紀元節…神武天皇即位の年から数える暦)2600年にあたるため末尾の『0』をとり『零式艦上戦闘機』と命名された。当時の日本の工業力では強力なエンジンが造れなかったため、機体を極力軽くする事で驚異的な運動能力や航続力を得ることに成功したが、その反面、防弾装備がほとんど施されず致命的弱点となった。
 日本海軍の主力戦闘機として1万機以上生産され、終戦まで戦い続けた。最も活躍した『二一型』の性能は最高時速時速533km/h。最大航続距離3350km。胴体機首7.7mm機銃2挺・翼内20mm機銃2挺。作品で登場するのは1943年(昭和18年)に採用された『五二甲型』。全幅11m。全長約9m。重量約2.7t。最高速度559km/h。最大航続距離1920km。胴体機首7.7mm機銃2挺・翼内20mm機銃2挺。爆弾30または60kg2発。乗員1名。
 なお『零戦』は正確には「ゼロセン」ではなく「レイセン」と発音するそうである。
第二次世界大戦・太平洋戦争
 1939年ポーランドへ侵攻したドイツに対しイギリス・フランスが宣戦布告、第二次世界大戦が勃発した。さらにドイツ軍はソ連へ侵攻を開始、フランス・オランダなどを占領。翌年ドイツ・イタリア・日本の三国軍事同盟が成立。当時すでに中国との戦争状態にあった日本は、それまで外交的圧力を加えられていたアメリカに対し1941年に宣戦布告。ドイツ・イタリア・日本の『枢軸国』対アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国などの『連合国』の構図ができあがり、ヨーロッパから北アフリカ、太平洋全域からインド洋にかけて戦火が拡大した。
 『太平洋戦争』とは、日本とアメリカ・イギリスなど連合国との太平洋の戦いに限定した呼称で、当時の日本ではそれ以前から続いていた中国との戦争(日中戦争)とあわせ『大東亜戦争』と呼んでいた。太平洋戦争初期は日本優勢だったがミッドウェー海戦で形勢が逆転、国力に勝るアメリカの反撃が始まり、戦争末期には度重なる空襲で日本の主要都市は焦土と化していた。
 1943年イタリアが連合国に無条件降伏。ドイツ・日本は1945年、無条件降伏し戦争は終結した。
佐官
 大佐・中佐・少佐の総称。日本海軍航空隊の場合、飛行隊長の佐官が自ら実際に戦闘で指揮を執ることは滅多になく、総括指揮官は古参の大尉が選ばれた。
撃墜王(エース)
 第一次世界大戦中フランスで始まった風習で、空中戦で通算5機以上敵機を撃墜したパイロットに送られる称号。「たった5機」と思われるかもしれないが、空中戦というものはそれだけ困難な戦いだ…ということである。
B-29(ボーイング B-29 スーパーフォートレス)
 『超・空の要塞』と呼ばれたアメリカの大型爆撃機。太平洋戦争後期、日本本土攻撃の主力となり日本の主要都市を破壊し尽くし、最後に広島・長崎に原子爆弾をも投下した。高度1万メートル以上を飛行するこの機に対し、満足に迎え撃つ事が出来る兵器の生産技術に乏しかった日本は苦戦を強いられた。当時の日本とアメリカの国力の差を見せつけた機体である。
 全幅約43m。全長約30m。重量約63t。最大速度576km/h。最大航続距離9650km。12.7mm機銃計12挺。20mm機銃1挺。爆弾搭載量9t。乗員10名。(B-29A)
「高度1万メートルでは零戦は充分な戦闘ができん」
 気圧は地上の4分の1、温度はマイナス50度以下になる高度1万m以上(成層圏)を長時間自由自在に飛行するには、排気タービン過給器(排気ガスの圧力を利用してタービンを回転させ空気を圧縮してエンジンの燃焼室に送り込む装置。今日で言うターボチャージャー)、あるいは高度な技術(特に金属の精製・加工)を持って造られた機械駆動過給機(こちらはエンジンの動力の一部を使って機械的にタービンを回す過給器。今日で言うスーパーチャージャー)付のエンジンが必要となる。
 当時の日本は、排気タービン過給器は実用化出来ず、機械駆動過給機も日本軍機では標準装備であったものの性能向上が進まず、B-29をはじめ成層圏を飛行する連合国軍機に充分太刀打ちできる状況ではなかった。
特攻
 1944年10月20日「爆弾を積んだ飛行機でパイロットもろとも敵軍艦に体当たりし撃破する」という『神風特別攻撃隊』が編成され25日に出撃した。
 この特攻作戦が予想以上に戦果を上げたことから、以降次々と特攻隊を編成、攻撃を継続。さらには有人ミサイル『桜花』、有人魚雷『回天』など特攻専用兵器を開発し戦場に送り込んだ。
玉砕
 本来の意味は「全力尽くして事にあたり、潔く死ぬこと(あるいは負けること)」。
 戦争初期、太平洋の多くの島を占領した日本軍だったが、征空海権を奪われた戦争後期、補給路だけでなく退路まで失い孤立したその島々を次々に放棄した。放棄されたどの島でも残された守備隊は降伏せず、最後の攻撃を敢行し全滅した。アメリカ軍はこれを「バンザイ・アタック」と呼んだ。サイパン島では兵士だけでなく一般の日本人約1万人までもが玉砕した。
真珠湾作戦
 日本時間1941年12月8日未明、ハワイ・オアフ島のアメリカ太平洋艦隊を日本海軍の機動部隊(航空母艦を中心戦力とした攻撃部隊)が攻撃、太平洋戦争へ突入した。日本側の外交手続きの遅れから完全な「不意打ち」となり(これはアメリカ側の謀略という説もある)以後「 Rememder Pearl Harbor (真珠湾を忘れるな)! 」を合言葉に、アメリカ国民の対日反抗意識が高まった。
P-51(ノースアメリカン P-51 ムスタング)
 登場当初は速力以外さしたる特長もなかったが、エンジンをイギリス・ロールスロイス社製のマーリン・エンジンに換装後、性能が飛躍的に向上し『世界最優秀戦闘機』と称された。第二次世界大戦後も朝鮮戦争(1950〜1953年)で活躍するなど、ジェット戦闘機が主流となるまで数カ国の軍隊で使用された。なお書籍によって『マスタング』『ムスタング』と表記が別れるが、作品では『ムスタング』とした。
 全幅11.3m。全長約9.85m。重量約4.6t。最大速度704km/h。航続距離3700km。翼内12.7mm機銃6挺。ロケット弾6基。爆弾搭載量900kg。乗員1名。(P-51D)
F6F(グラマン F6F ヘルキャット)
 1942年に登場したアメリカ海軍の艦上戦闘機。高出力のエンジンに強力な防弾装備という零戦とは正反対の性格を持つ。太平洋戦争初期の零戦に一方的に押されていた状況を力と数で打破し、連合国を勝利に導いた。
 全幅13m。全長約12m。重量約5.7t。最大速度594km/h。航続距離1750km。翼内12.7mm機銃6挺。ロケット弾6基。爆弾搭載量900kg。乗員1名。(F6F-5)
格闘空中戦
 初めて本格的な空中戦が行われた第一次世界大戦から第二次世界大戦前半まで、『空中戦』といえば一対一の格闘空中戦であり、そのため運動性能の優れた小型の軽戦闘機が優位とされた。零戦はその考え方に基づいて設計され格闘空中戦に無敵の強さを誇ったが、太平洋戦争後期になるとアメリカは零戦との一対一の戦闘をさけ2機(または3機)一組での一撃離脱の戦法を取り始めた。この戦法では強力なエンジンと充分な防弾装備を持ち、そして何よりも数で勝るアメリカ軍機に優位で、日本軍機は劣勢に立つことになった。
 哨戒飛行
 敵の来襲を警戒して見張りをするための飛行行動。
「広島と同じ爆弾」(原子爆弾 )
 1945年(昭和20年)8月6日、広島に原子爆弾が投下された。たった1個の爆弾で広島の街は一瞬にして壊滅、20万人以上の死傷者を出した。その3日後の8月9日、長崎にも投下され、やはりおびただしい数の死傷者を出した。
 この爆弾の完成は人類が自らを滅ぼせる力を持ったことを意味し、第二次世界大戦後の世界情勢の下、さらに強力な水素爆弾とともに、これら『核兵器』を地球に蓄積していくことになる。
「ソ連も参戦して満州になだれ込んできましたし…」
 太平洋戦争が始まる前、日本とソ連(現ロシア共和国等)はお互いの国を攻め込まないという『日ソ中立条約』を結んでいたが、アメリカ・イギリスと秘密裏に協定を結んでいたソ連は1945年8月8日に日本に対し宣戦布告。日本が支配していた満州(現在の中国東北部)に侵攻を開始した。満州に駐留していた関東軍(日本陸軍)は、満州に入植していた一般日本人を置き去りにして撤退。残された一般人の多くが犠牲・行方不明となる惨劇を生み、中国残留孤児などの問題が残された。
征空戦闘機(現代は制空戦闘機と表記される方が多い)
 爆撃機と共に遠く敵地へ出撃し敵戦闘機を撃滅、その制空権を奪取・確保するための戦闘機。空中戦に勝つための高度な運動性能と長い航続距離が要求される。
 太平洋戦争初期の零戦は征空戦闘機として世界一の性能を誇り「ゼロ(零戦)に会ったらまず逃げろ!」と連合国軍のパイロット達に恐れられていた。
 迎撃戦闘機
 その名のとおり、攻めてきた征空戦闘機や爆撃機を「迎え撃つ」ための戦闘機。運動性能よりも高速度・上昇および急降下能力・火器(武器)に重点が置かれる。
 当時の日本では迎撃戦闘機のことを『局地戦闘機』と呼んでいた。
一式戦闘機『隼(キ43)』
 零戦と同じく太平洋戦争全期間を通じて戦い続けた、日本陸軍を代表する征空戦闘機。速度・航続距離は零戦に劣るが、旋回性能・上昇力は勝っていた。なお『隼』の名称は国民向けの通称で、軍の正式名称ではない。
 全幅約11m。全長約9m。重量約2t。最大速度515km/h。航続距離1620km。胴体機首12.7mm機銃2挺。爆弾30〜250kg2発。乗員1名。(二型)
局地戦闘機『雷電』
 1942年に登場した日本海軍初の局地(迎撃)戦闘機。その後の試験・改修に手間取ったため、実戦参加は1944年と大幅に遅れた。対B-29迎撃戦ではもっとも戦果を上げた機体だったが、戦争長期化による資材不足や工業力低下のため400機ほどしか生産されず、有効戦力とは言い難い結果となった。
 全幅約11m。全長約10m。重量約3.2t。最大速度616km/h。航続距離1898km。翼内20mm機銃4挺。爆弾30または60kg2発。乗員1名。(二一型)
十七試艦上戦闘機『烈風』
 零戦の後継機として開発が進められていたが『雷電』同様設計に手間取り、これが戦争後半に零戦が苦戦した一因にもなった。試作機8機が造られたが、量産1号機の完成寸前で終戦を迎えた。幻に終わった高性能戦闘機である(ただし、仮に量産機が戦争にに参加できたとしても、その性能通りの働きを見せたかどうかは疑問である)。
 全幅14m。全長約11m。重量約3.2t。最大速度627km/h。翼内20mm機銃2挺・翼内13mm機銃2挺、または翼内20mm機銃4挺。爆弾30または60kg2発。乗員1名。(一一型)
ミッドウェー海戦(ミッドウェー作戦)
 1942年6月4日(日本時間5日)の太平洋戦争のターニングポイントとなった海戦。ミッドウェー島攻略とアメリカ軍機動部隊の撃滅を目的に出撃した日本軍だったが、逆に主力航空母艦4隻、そして多くの航空機と熟練パイロットを失い大敗。この海戦以後戦局は逆転、連合国側の反撃が始まることになる。
「不時着した零戦」
 ミッドウェー作戦と同時に行われていたアリューシャン攻略作戦で、1機の零戦がアクタン島に不時着した(パイロットは不時着時に死亡)。約1ヶ月後、その零戦をアメリカ軍が発見。回収・修理の後、徹底的に調査・テストを繰り返した。この事件により、それまでアメリカ軍にとって最大の脅威であった零戦の性能が明らかとなり『無敗零戦』の神話は崩れていくことになった。
艦上爆撃機『彗星』
 太平洋戦争勃発前「敵戦闘機より速い爆撃機」を実現しようと開発された、研究機的側面を持った機体。ドイツ製の高性能液冷エンジンを国産化、可能な限りの新技術を盛り込んで完成した試作機は計画通りの高性能を示した。しかし性能重視の設計が災いし量産機ではトラブルが続出。実戦でその性能を発揮できたのはごく少数で、戦争末期にはエンジンを換装され多くは特攻機として使用された。
 全幅11.5m。全長約10.2m。重量約3.6t。最大速度580km/h。胴体機首7.7mm機銃2挺・7.7mm後席旋回機銃1挺。爆弾250または500kg1発・60kg2発。乗員2名。(一二型)
電探
 電波探信儀(レーダー)の略。当時日本は、工業技術力でアメリカに劣っていたが、とりわけエレクトロニクスの分野では大きく水をあけられていた。電探だけでなく無線機なども性能が悪く(作品では演出上、無線機が活躍しているが…)あまり使い物にならなかったそうである。
三点着陸
 着陸の時、主翼下の両主脚と機体後部の尾輪の三点を同時に接地させる、基本かつ重要な操縦技術。
 太平洋戦争終結(終戦)
 今日、終戦は昭和天皇の『玉音放送』により日本国民に向け戦争終結(敗戦)を発表した1945年8月15日とされているが、日本政府が連合国側に対し無条件降伏を表明(打診)したのは、前日8月14日午後11時過ぎのこと。また日本が正式に降伏文書に調印したのは1945年9月2日である。作品では太平洋戦争終結を一般的な『終戦記念日』の8月15日とした。
 設定集もくじ
この作品について 
『Laboratory-A』Topページ