Labo-A作品03 『Take Off 君の夢が聞こえる』用語集 Topページ
ご注意
 この用語集はあくまでも作品を楽しんでいただくためのものです。一般論や俗説も参考に制作していますので『歴史的事実』などを調べる目的での利用はお止めください(2003年〜2006年作成 2022年一部修正)。
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 前編分
世界初の有人動力飛行
 1903年12月17日、アメリカで兄・ウィルバー(1867〜1912年)弟・オービル(1871〜1948年)のライト兄弟が、世界初の有人動力飛行に成功。兄弟自ら開発した『フライヤー1号』で滞空時間12秒、距離36.6メートルを飛行した。この日、計4回の飛行が行われ、最長飛行距離は260メートルだった。この『有人動力飛行』とは「搭載したエンジンなどの原動機で自ら推進力を創り出し、翼で揚力を得て、人間が操縦して飛ぶ事」であり、飛行機以前に開発されていた飛行船は有人動力飛行に属さない。
 なお、動力を使わない有人初飛行(無係留飛行)は1783年、フランスの兄・ジョセフ=ミシェル(1740〜1810年)弟・ジャック=エティエン(1745〜1799年)のモンゴルフィエ兄弟製作の熱気球が、距離8km・約25分の飛行に成功(搭乗者はモンゴルフィエ兄弟ではなく、ある科学者と侯爵の2人)。これが人類が歴史上初めて空を飛んだ(浮いた?)記録となっている。
 未公認の記録
 ライト兄弟の有人動力飛行成功以前、ロシアのモジャイスキー、フランスのアデール、イギリスのマキシムが、それぞれ蒸気エンジン付き動力飛行に挑戦し、わずかに離陸したとされている。しかし、どれも「パイロットが操縦し安定して飛行できる機体」ではなかったため、世界最初の動力飛行機とは認められていない。
 財閥
 日本独特の形態をもつ巨大な独占的資本家・企業家の家族集団。持株会社によって多くの企業を支配し、国家権力と密接に結びついていた。太平洋戦争敗戦後の1946(昭和21)年、占領軍総司令部(G.H.Q)により財閥解体が指示され個別企業へ分解される。
お断り
 この作品の舞台である1901年に「財閥」という呼び名が存在したのかは判りませんが、演出上、説得力がある言葉なのであえて使用しました。ここでは「巨大な富を有し、経済的な支配力をもつ家族・一門」とお考えください
 「汽車がどこの国で発明されたのか…」(世界最初の蒸気機関車)
 世界初の蒸気機関車を製造したのは、イギリスのリチャード=トレビシック(1771〜1833年)。1804年、10トンの鉄鉱石と70人の乗客を乗せて15キロの距離を走らせることに成功したが、メカニズム上の問題があり人間の歩行程度のスピードしか出せなかった。
 「汽船は米国(アメリカ)」(世界最初の汽船)
 現在、世界最初の汽船はアメリカのロバート=フルトン(1765〜1815年)が1807年に製作した『クラーモント号』といわれているが、それ以前に蒸気機関を使用し推進する船は存在した。フルトンの成功は、ニューヨークとオルバニー間に世界初の蒸気船による定期航路をおき汽船時代の幕開けを導いた功績にあり、クラーモント号が『世界最初の汽船』と認められている理由である。この作品でも世界最初の汽船は、このクラーモント号としている。
 「自動車は仏国(フランス)」(世界最初の自動車)
 世界最初の自動車は、フランス王・ルイ15世の砲兵隊将校だったニコラス=ジョセフ=キュニョー(1725〜1804年 )が、1769年に製作した蒸気自動車『ファルディエール号』。これは『キュニョーの砲車』と呼ばれ、現在、フランスのパリ技術博物館に実物が展示されている。時速3.2kmという速度しか出せなかったにもかかわらず、試運転中に塀に激突して世界初の交通事故も起こしている。
 内燃機関(エンジン)で走る自動車は、1886年にゴットリーフ=ダイムラー(1834〜1900年)とカール=ベンツ(1844〜1929年)によって発明された。当時の燃料はガソリンではなくベンジンだった 。
 『航空の基礎としての鳥の飛翔(Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst)』
 ドイツのオットー=リリエンタール(1848年〜1896年)が1889年に出版した、鳥の飛び方・翼の形態・飛行時に鳥の翼に働く力などを調べ、グライダー設計に応用する為のデータを論じた航空学文献の古典。
 蒸気エンジンを取り付けた飛行機の開発を試みていたリリエンタールは2000回以上もグライダーで飛行をしたが、1896年8月に複葉グライダーでの飛行実験で墜落し死亡した。リリエンタールの飛行機開発に関心があったライト兄弟は、この事故の報を聞き自らも飛行機開発に乗り出した。
 『飛行器械の進歩(Progress in Flying Machines)』
 オクターブ=シャヌート(1832年〜1910年)が1894年に出版した、リリエンタールの『航空の基礎としての鳥の飛翔』と共に当時の航空学のバイブルとなった本。シャヌートはフランス生まれの土木技師で、アメリカでは鉄道関係の仕事に従事。鉄道会社引退後は航空に興味をもち『飛行器械の進歩』を著した。1896年には代理人(シャヌート本人は64歳の高齢で乗れないため)を乗せて複葉グライダーで滑空実験を行った。
 ライト兄弟との手紙のやりとりもあり、彼らに色々とアドバイスをしている。
 「何でも元自転車屋の兄弟だそうで…」
 このセリフはライト兄弟のことを指す。ライト兄弟は飛行機開発に着手する前は自転車屋を操業していた。飛行機開発成功の一因はこの時の技術が活かされたためとも言われている。2つのプロペラに動力を伝達するチェーンに至っては、まさに『自転車屋のお家芸』である。
 黒船
 江戸時代の末、当時オランダと清(現在の中国)以外の外国とは一切の貿易や交通をしない『鎖国政策』を取ってきた日本(江戸幕府)に対し、開国(鎖国をやめ外国と外交や通商関係をむすぶこと)を求めるために欧米諸国の蒸気船がたびたび日本に来航したが、これらの蒸気船は船体を黒くぬっていたので一種の恐怖感をもって『黒船』と呼ばれた。
 幸吉のセリフにある「アメリカから来たあの4隻の黒船」とは、1853年に来航したマシュー=カルブレース=ペリー率いる艦隊のこと。現在、一般的に『黒船来航』と呼ばれている歴史的事件で、幕府はこのペリー艦隊の威力におされ、翌年、鎖国政策を放棄し開国した。
 中編分
 「清国との戦争」(日清戦争)
 1894(明治27)年、朝鮮の内政指導権を巡りおこった日本と清(現在の中国)との戦争。この戦争に勝利した日本は遼東(リャオトン)半島・台湾などを領有し、多額の賠償金を得た。
 「我が国と露国(ロシヤ)との対立が深まっていることはご存知ですな?」
 日清戦争で勝利した日本の急成長を警戒したロシア(帝政ロシア。当時は『ロシヤ』と表記)・ドイツ・フランスは、遼東半島を清に返還することを要求、国力(武力)の劣る日本はこれに応じざるを得なかった。『三国干渉』と言われるこの要求は、ロシアがドイツ・フランスを誘っておこしたため、以後日本のロシアに対する敵意が強くなり、この物語の後の1904(明治37)年に日本はロシアに対し戦争(日露戦争)を起こすことになる。
 旅順(旅順要塞)
 現在の中国、遼寧(リャオニン)省の遼東半島南部、大連(ターリエン)市西部の地区。1898(明治31)年にロシアが清国から租借権(ある国がほかの国の領土の一部を一定の期間借りて統治下に置くこと)を得て占領して以来、ロシア太平洋艦隊の最大の根拠地とするため大要塞を築城した。日露戦争では大激戦地となり日本軍は戦死者15000人以上、負傷者40000人以上というロシア軍以上の犠牲を出しながら陥落させた。
  「二流国の日本が世界に認められるには戦争に勝ち我が国の国力(ちから)を示すことが必要」
 当時の世界は、自国の勢力範囲や領土を武力や他の手段によって拡大しようとする『帝国主義』の時代であり、軍事力が国力そのものであった。日本も日清・日露戦争に勝利することで大国の仲間入りを果たしたが、早急・強引な軍事力増強・植民地拡大政策は、やがて太平洋戦争を引き起こす結果となった。
 列強
 「多くの強い国」の意味。特に19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパ帝国主義諸国をさす。日本は日露戦争で勝利することで『列強入り』を果たした。
 植民地
 政治的・経済的に他国に支配され,国家の主権をもたない地域。当時、列強各国は原料・農産物の供給源、商品資本の輸出市場、低賃金の労働力の供給源として植民地の獲得と拡張に努めた。
勤王の志士(勤皇の志士とも表記する)
 幕末(江戸時代晩期)に朝廷のために働いた一派。 日本の政治体制を天皇を中心とした形に戻し、外国の圧力に屈せぬ新しい社会の枠組みを作ろうとした勢力。明治維新の原動力となった。
 徴兵
 近代国家建設を目指した明治日本政府は『富国強兵(国力を充実させるために産業の育成・軍備の強化をはかる)』政策に基づき、1872(明治5)年に徴兵令を公布した。『国民皆兵』を建前として20歳以上の男子を兵籍(軍隊)に入れ3年間兵役に就かせるものだったが、役人や国立学校の在校・卒業生、医学生や欧米留学者、また一家の主人や跡継ぎとなる長男・養子・一人っ子は徴兵を免除された。また当時の金額で270円(現在での価値は下記『5000円』を参照)を『代人料』として納めれば免除されるなど、徴兵を逃れる手段は数多くあり、実際に兵役についたのは貧しい農家の次男・三男などがほとんどだった。
 この作品では、末永財閥の頭首である志織の父親の力添えで、幸吉は兵役を免除されている。
後編分
 5000円
 日本銀行調査統計局が発表している『企業物価指数(戦前基準指数)』を基に算出すると、1901年(明治34年)の1円は2019年(令和元年)の約1500円となり、明治時代後期当時の5000円は現在の約750万円に相当する。
 ただし明治時代と現代では社会の仕組みや人々の生活様式が大きく異なるので、他の様々な基準を用いての算出では数千円〜数万円と大きな差が生じる。仮に2万円とすると、当時の5000円は現在の約1億円相当となる。
 どちらにしても明治時代の貨幣価値は現在と比べ、かなり高いといえる。
 ジュネーブ条約(赤十字条約)
 戦争での戦闘行為に参加しない民間人や戦闘行為ができなくなった人(捕虜・傷病者など)の保護を目的としてつくられた条約。1864年に締結され、日本は1886年に加入。日清戦争当時、清はジュネーブ条約に加入していなかった。
設定集もくじ
この作品について 
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